Thailand historical figures
タイ全土で見られる各地の偉人の銅像を写真と共にご紹介。
知らないと通り過ぎてしまう地方の銅像も、実は歴史的に大きな役割を果たした人物ばかり。銅像を見る目が変わってきます。
まだ少ないですが、少しずつ増やしていきますね~。
ガムムアン王・マンラーイ王・ラムカムヘーン王
ランナータイ王国建国に努めた3人の王の記念碑。
左・ガムムアン王พญางำเมือง パヤオ王朝第9代目国王(在位1258~1298)
中央・マンラーイ王พญามังราย ヒランナコングンヤーン王朝第25代目国王(在位1238~1292)/ラーンナー王朝初代国王(在位1292~1311)
右・ラームカムヘーン王พ่อขุนรามคำแหงมหาราช スコータイ王朝第3代目国王(在位1279~1299)
場所/チェンマイ市芸術文化センター前
พระบรมราชานุสาวรีย์สามกษัตริย์ เชียงใหม่
マンラーイ王
พญามังราย
1238年ヒランナコングンヤーン王国(チェンセーン)の王子として生まれる。1259年ヒランナコングンヤーン王国25代目の王に即位し、当時北部を広く統治していたハリプンチャイ王国をつぶし1292年ラーンナー王国を成立、初代王に即位。後の世代まで長く使われたマンラーイ法典と呼ばれる22条からなる法律を作り国家の秩序と安定をもたらした。1311年に3人の王の記念像のあるすぐそばのワット・ドゥアンディで落雷に打たれ73歳でなくなっている。
場所/ワット・ドーイガムムアン(チェンラーイ)กู่พระเจ้าเม็งราย/วัดดอยงำเมือง จ.เชียงราย
プラナーンジャーマテウィー
พระนางจามเทวี
ロッブリーに都を置くモーン族の国ラウォー王国の王女として生まれ、13歳くらいの時にランプーンのハリプンチャイ王国初代女王に即位。
在位663~670年
98歳まで生きたと言われている。
ロッブリーから多くの僧侶や各分野の専門家を引き連れ、王国の地盤を固めた。
ジャーマテウィー女王の双子の王子のうち長男はハリプンチャイ第2代目国王、次男はケラーンナコーン(ランプーン)を建国し国王に即位している。
ランプーンにはジャーマテウィー女王を祀った場所がいくつかあるが、旧市街にあるこの記念碑は西暦1982年にラタナコーシン朝100周年を記念して建てられたもの。場所/旧市街(城壁内)南側 อนุสาวรีย์พระนางจามเทวี ลำพูน
プラヤーピチャイダープハック
พระยาพิชัยดาบหัก
1740~1781
ウタラディット県ピチャイ郡に生まれる。
アユタヤー王朝最後の時期からトンブリー時代までタークシン大王に忠義をつくした武人。幼いころから武術を学びトンブリー王朝に仕官し多くの戦いで活躍する。
両手に持つ刀の片方が折れているのがプラヤーピチャイの代名詞でもあり、かつてビルマ軍がピチャイに攻め込んできた際に片方の刀が折れても戦い続け国を守った姿を伝えている。
また、タークシン大王に忠義を尽くし、王がが処刑された後にラーマ1世に仕えることを拒否し自ら処刑を申し出たことから歴史上最も忠義のある武将として愛されている。
場所/ウタラディット県庁前
อนุสาวรีย์พระยาพิชัยดาบหัก อุตรดิตถ์
サンペット2世/ナレースワン大王
สมเด็จพระนเรศวรมหาราช
アユタヤー王朝第21代目国王。
在位1590~1605。
タイ3大王の一人。
父王サンペット1世がピッサヌローク知事時代にピッサヌロークで生まれる。
1563年8歳の頃にピッサヌロークはタウングー王朝バインナウン王に侵略され、ナレースワンは人質としてビルマに養子に出される。そのビルマで多くの戦術を学び、1571年姉のスパンカンラヤーと引き換えにアユタヤーに戻される。
1569年難攻不落といわれたアユタヤーがバインナウン王に占領されてから21年、1590年にナレースワン王はアユタヤーを奪いかえすことに成功。その後も次々と奪われたアユタヤーの領土を回復させていきアユタヤー王朝の権威を取り戻した。場所/チャンパレス
พระราชวังจันทน์ พิษณุโลก
ラーマティボディ3世/ナーラーイ王
สมเด็จพระนารายณ์มหาราช
アユタヤー王朝第30代目国王。
在位1656~1688
文学・外交において多くの功績を遺したアユタヤー王朝黄金期を作りあげた。
ロッブリーに副都を建設し、王自身も年の半分以上はロッブリーに滞在していた。
ラウォー王国時代に建てられた仏教寺院やヒンドゥー教寺院はナーラーイ王時代に大きく修復・増築などが行われ、ヨーロッパ式のデザインも取り入れて行われたことで他の場所とは異なった遺跡を見ることが出来る。
1966年に完成した像は戦勝記念塔や民主記念塔など数多くを手掛けるシン・ピラシーศิลป์ พีระศรีの作品。
場所/テープサトリーロータリー
พระบรมราชานุสาวรีย์สมเด็จพระนารายณ์มหาราช ลพบุรี
プラプラトゥムウォララートスリヤウォン/ジャオカムポン
พระประทุมวรราชสุริยวงษ์ คำผง
(1709~1795)
1768年頃、ヴィエンチャン王国内部紛争で分裂したジャオ・プラター、ジャオプラウォー一派がノーンブアランプーに移り住み、後に更にヴィエンチャンの攻撃を恐れウボンラーチャターニーまで南下して移住したラーンサーン王朝の血を引くジャオ・プラターの息子。ヴィエンチャンの攻撃の手がウボンにまで達するとタークシン王に援助を求め、ジャオプラヤー・チャクリー(後のラーマ1世)によりヴィエンチャン王国は制圧された。1778年にジャオ・カムポンにより県の元となる新たな町が建設され、正式に初代領主に任命された。85歳で死去。อนุสาวรีย์พระประทุมวรราชสุริยวงษ์ เจ้าคำผง อุบลราชธานี
プラカティヤウォンサー/トン
พระขัติยะวงษา (ทน)
ラーンサーン王国スリニャウォンサー王の崩御から始まる権力闘争から逃れローイエットにトンシープームの町を興したジャオ・ゲーオモンコンの息子で、3代目のトンシープーム領主を務めた後、現在のローイエット中心地に新たな町を作り、1775年トンブリー朝時代にタークシン王からローイエット初代領主に任命された。
記念碑は1999年建立。
อนุสาวรีย์พระขัติยะวงษา (ทน) ร้อยเอ็ด
プラスントーンラーチャウォンサー/ジャオカムシン
พระสุนทรราชวงศา(คำสิงห์)
(在位1814~1823)
ヴィエンチャンから南下してきたジャオプラター、ジャオプラウォーの一族。
後にジャムパーサック3代目領主となるジャオ・ファーイナーと共にヤソートーンのバーンターシンに町を作る。そのころジャムパーサックで起こった反乱の鎮圧に成功し、ジャオファーイナーはジャムパーサックの領主に、ジャオカムシンは後にジャムパーサックからバーンターシンに戻り町の発展に努め、1814年初代ヤソートン(旧ユッスントーン)領主に任命される。อนุสาวรีย์พระสุนทรราชวงศา(คำสิงห์) ยโสธร
プラヤーチャイスントーン/ソムパミット
พระยาชัยสุนทร (โสมพะมิตร)
ガーラシンの初代国主。もとはヴィエンチャン王国の王族であったが内部紛争により1777年ごろ住民を連れてガーラシンに移住し町をつくり、初代領主となる。1782年ラーマ1世がラタナコーシン朝初代国王に即位した際に献上したブロンズ製の水差しを献上し、県の始まりとなる都市に格上げされたことから、プラヤースントーンの右手には水差しが握られている。記念碑は1982建立。場所/ガーラシン郵便局前อนุสาวรีย์พระยาชัยสุนทร กาฬสินธุ์
プラヤースリンパクディシーナロンジャーンワーン
พระยาสุรินทรภักดีศรีณรงค์จางวาง (ปุม)
スリンの中心ともいえる2本の大きな象の牙の間に立つこの像は、スリン最初の領主プラヤー・スリンパクディシーナロンジャーンワーンのもので、1984年に制作。
1707年ラーンサーン王国分裂後の混乱でジャムパーサックから逃れてきたグーイ族の一人で、ムアンティーに定住し町を作り領主となった。その後アユタヤー王朝スリヤートアマリン時代に首都から逃げ出した白象を他の地域に定住したグーイ族の領主5人と結束し見事に捕獲したことで官位を授かりこの地域を納めるまでになった。
อนุสาวรีย์พระยาสุรินทรภักดีศรีณรงค์จางวาง (ปุม) สุรินทร์
ルワン・チャイスリヨン
หลวงไชยสุริยง
1707年ラーンサーン王国分裂の混乱からスリンパクディとともに逃れてきたグーイ族の一人。6つのグループに分かれた移民のなかで、1752年シーコーラプームのジャーラパット(บ้านจารพัต)に定住したグループの領主となる。白象の捕獲にも加わりルワン・チャイスリヨンの名前を授かった。
町の平和と安定に努め、現在のシーコーラプームの町まで受け継がれてきた。
.อนุสาวรีย์หลวงไชยสุริยง สุรินทร์
ターオ・スラナーリー/ヤーモー
ท้าวสุรนารี
1777年コラート出生。タイのジャンヌダルクとも呼ばれる女傑。
1826年ヴィエンチャンから南に侵攻してきたアヌゥオン王率いるラオス軍を撃退したことで57歳の時に”ターオ”の官位が与えられ、コラートを代表する英雄として称えられている。当時のコラートの副知事プラヤー・プラットトーンカムの妻で、子供がいなかった代わりに多くの市民に”母”と呼ばれ親しまれてきた。
1852年81歳まで生きている。
記念碑は台座に遺骨の一部が安置されており、像の制作は戦勝記念塔や民主記念塔など数多くを手掛けるシン・ピラシーศิลป์ พีระศรีの作品。
อนุสาวรีย์ท้าวสุรนารี นครราชสีมา
グロムルワンプラジャックシンラパーコム
กรมหลวงประจักษ์ศิลปาคม
(1856~1924)
ラーマ4世の側室の息子であるプラジャック親王はラーマ5世治世には東北地方の防衛に努め、1893年1月18日にウドンタニーに基地を設置したことで町は発展し現在の県の基礎を作った。毎年1月18日はウドンタニー県創立記念日として盛大に祝賀行事が開催される。
記念碑は1971年建立。場所/市内中心部ロータリーอนุสาวรีย์กรมหลวงประจักษ์ศิลปาคม .อุดรธานี